苦手だったわけは・・・
2004年 08月 05日
昨日一日かけて、HPの<今でも新鮮な名作たち>というページをUPしました。
敬遠していた古い作品でも、実際は結構面白く読めるモノもあったので、それを纏めてみたんですが・・・。
意識的に海外の作品ばかりピックアップしましたが、そもそも、この定義で紹介出来る日本の作品はとても少ないことに気付きました。・・・って、早い話が殆ど読んでない。
紹介した作品は殆どが19世紀末から20世紀初頭の欧米の作品なんですが、日本では明治から大正時代に当たります。漱石、鴎外と言った文豪が活躍した時期でもあります・・・が、この辺のところが思いっ切り苦手なんです。
江戸期以前の古典と呼ばれる作品なら、現代語訳が出ていて、しかも人気のある作品ならどんどん新訳が出ます。意訳でわかり易く面白く書いてくれているものもあります。でも、明治以降の作品は当時の文章そのままです。これが私如きの乏しい語彙と読解力では非常に厳しいのです。
これが海外の作品となると、古い作品でも、今、出回っているものは殆どが戦後に翻訳されたものですから、日本語の文章自体が読み易い!・・・これが欧米モノに走ってしまう一番の理由です。
しかし、日本の名作が苦手な理由は他にもあります。高校の授業と教科書です。
作品の一部分だけ持って来て、まるで解剖するように文章を説明されても興味が湧くどころか、『勘弁してよ~~!』って感じでした。そんな私を完膚なきまでに叩きのめしてくれたのが、漱石の『こころ』。あの授業には辟易しました。
実は欧米の作品も長いこと苦手でした。これは古い新しいに係わらずです。
この苦手意識は中学の夏休みの感想文の課題図書が原因です。
中学1年が『狭き門』(アンドレ・ジッド:著)、2年が『脂肪の塊』(ギイ・ド・モーパッサン:著)、『クオ・ヴァディス』(ヘンリック・シェンキウィッチ:著)でした。
ボーっとした子供が行き成りこんな物を読まされても、わけのわからない難行苦行を強いれらた気がするだけで、嫌いにこそなれ、好きにはなれませんでした。
『クオ・ヴァディス』に至っては、まるで経文を読むみたいに、ただただ字だけを追っていたのを覚えています。名前はなんだか似たような長ったらしいのばかりのカタカナの羅列で、誰が誰やらサッパリわからず、加えてローマ時代の時代背景も何も知らないんですから・・・。一体どんな感想文を提出したんだか・・・。(内容なんて、ここに貼ったリンク先の書評を読んで、今初めてわかった始末です。)
「こんなもの、中学生には無理だ!」と、国語の先生の横暴に憤慨していたんですが、ある同級生にそう言ったら、ケロッとした顔で「面白かったよ。」と言われてしまい、「私ってバカなんだ・・・。」と実感させられてしまいました。<洋物は私には無理>と思い込み、以来毛嫌いし続けたんです。同時に、その子が阿部公房のファンだったので、自動的に<阿部公房=難解>の図式が頭の中にインプットされ、阿部公房も今まで一度として手に取った事がありません。
でも、「阿部公房も面白そう・・・。」と最近密かに思っているのです。上の3冊も書評を読んだら結構面白そう・・・。
こういうパターン、よくあるんです。ここに書いたようなわけで、中学生の頃から長年欧米モノを読まず嫌いにしていたのと、「子供っぽい!」と端からバカにしていたのとで、『赤毛のアン』も『若草物語』も30過ぎてからやっと読んだんです。そして、ちゃんと楽しんでしまいました。
つまり、私の場合、欧米モノに関しては中学生の時点に遡って再スタートを切ったばかりなのです。ですから、今回UPした作品も名作の入門編のような作品ばかり。
『戦争と平和』や『失われた時を求めて』などを読むまでには、まだまだ時間が掛かりそうです。
TBしています:「人間嫌い」 モリエール 新潮文庫 (読書中心生活宣言様)
敬遠していた古い作品でも、実際は結構面白く読めるモノもあったので、それを纏めてみたんですが・・・。
意識的に海外の作品ばかりピックアップしましたが、そもそも、この定義で紹介出来る日本の作品はとても少ないことに気付きました。・・・って、早い話が殆ど読んでない。
紹介した作品は殆どが19世紀末から20世紀初頭の欧米の作品なんですが、日本では明治から大正時代に当たります。漱石、鴎外と言った文豪が活躍した時期でもあります・・・が、この辺のところが思いっ切り苦手なんです。
江戸期以前の古典と呼ばれる作品なら、現代語訳が出ていて、しかも人気のある作品ならどんどん新訳が出ます。意訳でわかり易く面白く書いてくれているものもあります。でも、明治以降の作品は当時の文章そのままです。これが私如きの乏しい語彙と読解力では非常に厳しいのです。
これが海外の作品となると、古い作品でも、今、出回っているものは殆どが戦後に翻訳されたものですから、日本語の文章自体が読み易い!・・・これが欧米モノに走ってしまう一番の理由です。
しかし、日本の名作が苦手な理由は他にもあります。高校の授業と教科書です。
作品の一部分だけ持って来て、まるで解剖するように文章を説明されても興味が湧くどころか、『勘弁してよ~~!』って感じでした。そんな私を完膚なきまでに叩きのめしてくれたのが、漱石の『こころ』。あの授業には辟易しました。
清水義範さんが小説『虚構市立不条理中学校』の中で、国語の授業での文学作品の扱い方の面妖さを痛烈に皮肉っていますが、快哉!
実は欧米の作品も長いこと苦手でした。これは古い新しいに係わらずです。
この苦手意識は中学の夏休みの感想文の課題図書が原因です。
中学1年が『狭き門』(アンドレ・ジッド:著)、2年が『脂肪の塊』(ギイ・ド・モーパッサン:著)、『クオ・ヴァディス』(ヘンリック・シェンキウィッチ:著)でした。
ボーっとした子供が行き成りこんな物を読まされても、わけのわからない難行苦行を強いれらた気がするだけで、嫌いにこそなれ、好きにはなれませんでした。
『クオ・ヴァディス』に至っては、まるで経文を読むみたいに、ただただ字だけを追っていたのを覚えています。名前はなんだか似たような長ったらしいのばかりのカタカナの羅列で、誰が誰やらサッパリわからず、加えてローマ時代の時代背景も何も知らないんですから・・・。一体どんな感想文を提出したんだか・・・。(内容なんて、ここに貼ったリンク先の書評を読んで、今初めてわかった始末です。)
「こんなもの、中学生には無理だ!」と、国語の先生の横暴に憤慨していたんですが、ある同級生にそう言ったら、ケロッとした顔で「面白かったよ。」と言われてしまい、「私ってバカなんだ・・・。」と実感させられてしまいました。<洋物は私には無理>と思い込み、以来毛嫌いし続けたんです。同時に、その子が阿部公房のファンだったので、自動的に<阿部公房=難解>の図式が頭の中にインプットされ、阿部公房も今まで一度として手に取った事がありません。
でも、「阿部公房も面白そう・・・。」と最近密かに思っているのです。上の3冊も書評を読んだら結構面白そう・・・。
こういうパターン、よくあるんです。ここに書いたようなわけで、中学生の頃から長年欧米モノを読まず嫌いにしていたのと、「子供っぽい!」と端からバカにしていたのとで、『赤毛のアン』も『若草物語』も30過ぎてからやっと読んだんです。そして、ちゃんと楽しんでしまいました。
つまり、私の場合、欧米モノに関しては中学生の時点に遡って再スタートを切ったばかりなのです。ですから、今回UPした作品も名作の入門編のような作品ばかり。
『戦争と平和』や『失われた時を求めて』などを読むまでには、まだまだ時間が掛かりそうです。
TBしています:「人間嫌い」 モリエール 新潮文庫 (読書中心生活宣言様)
by yuiga28
| 2004-08-05 18:50
| Book 小説